玲子とはかっていっしょに仕事をし、頼まれてポートフォリオブック用の写真を撮影したことがある。雑誌社のオーディションに合格し和服のモデルに採用され感謝された。

東京でモデルの仕事をしていたが、京都に戻ってきたとメール連絡を受け会った。以前の可愛らしさに大人の色気が加わった感じで、より魅力的に見えた。

それから5年ほど、ほとんど毎月会い、食事をしたり、美術館やお寺にお参りに行ったりしたりして過ごした。30才ほど年が離れているが、2時間でも3時間でも話しが途切れず、私に合わせてくれているのか話がはずんだ。

新型コロナウイルスの影響で人々の不安感が増大しているが、玲子も今までと変わった。

_Z7A2253bwホテルのレストランで食事をした後、スイートルームにコーヒーをルームサービスしてもらい休んで話しをした。

iPhoneからモバイルスピーカーに音を飛ばして、ホロビッツが演奏するショパンのノクターン No.20 をかけると、音楽を止めてもろうてもよろしおすかと言うので止めたら、昔ピアノを習っていたが、指が小さく無理をして指が動かなくなりピアニストの夢を諦めたと話してくれた。

コロナでこの先どうなるんでっしゃろと言うので目を見ると悲しそうな目で見つめ返してきた。今まで手を触ったことも無かったが、思わず肩を引き寄せると目を閉じたので、唇を合わせた。

初老を過ぎ、京都市内まで車で1時間ほどの田舎で一人暮らしており、玲子が別荘まで来てくれた時、一緒に近くの池の周りを散歩した。なんぞみつくろーて作りますと言って夕食を作ってくれ、一緒に食べた。

居間のソファで話しをしていて、いつしか抱き合い、暗闇が訪れても時間を忘れ、長い時間唇を重ねていた。小さく開けられた玲子の口から段々息遣いが聞こえてきた。体臭か香水か、ほのかな香りに酔ってしまった。

私が死ぬ時貴方のことを思い出します、社会のこと、科学のこと、芸術のこと、哲学のことなど、ぎょうさんおせてもろぅておおきに有難ぅと言うのでびっくりして、私よりはよ死んだらあかんでと言いながら強く抱きしめた。私の方が早く逝くのが筋で、その時には玲子のことをきっと思い出す。

L1000353 強いストレスで身体が不調になったようで、病が治るようお参りし、お守りを買ってあげた。

強いストレスとは何だろう、強いて問わなくても話したくなったら話してくれるだろうと思っていたら、少しづつ過去の話しをしてくれるようになった。

銀座のクラブでホステスのアルバイトをしている時、旦那に見初められ、小さな店を銀座に出してもらったようだ。

話から旦那に深く愛され、玲子も旦那を慕っていたことが伝わってきて、知らない旦那に少し嫉妬し、玲子を愛してくれたことに感謝した。

子供が産まれて1年足らずで旦那が亡くなり失意のうちに故郷の京都に帰ってきた。

コロナの感染拡大で移動自粛していたが、ワクチン接種したので久しぶりに会い、食事をするようになった。

次に田舎の別荘に誘った時、京都の料亭から仕出ししてもらった夕食を食べた後、こんなことを言うと笑われると思ったが、玲子に会いたくてしょうなかったと言ってしまい照れ臭かったが、私も会いとうて寂しおしたえと応えてくれ安心した。 

後片付けをしている玲子を後ろから抱きしめると、振り向いてくれたので居間まで連れていきジュータンの上に押し倒し、目を見ながら唇を合わせた。玲子が唇を離さないように感じ、1時間以上の長いキスになった。

気持ちが高まり、段々男の強さが蘇ってきた。玲子のふくよかな胸を柔らかく揉みゆっくり愛撫すると、玲子が小さくうめき声をあげしがみついてきた。玲子の服を脱がし、久しぶりに感じた下の部分の膨らみを近づけたが、うまくいかず、玲子が手で中に導いてくれた。こんな私を受け入れてくれた玲子に感謝した。

久しぶりにぎこちなく動いていると玲子が上になってくれ、激しく腰を動かして小さく長いうめき声をあげた。

イキましたと言うので、ほんまかと聞くと、恥ずかしおす、気持ち良うていってしまいましたと言うので抱きしめて手を濡れた部分に這わせた。

前の旦那でもイッたんかと聞くと、あほなこと言わんといて、優しゅうしてもらいましたと言うので、ええ経験やったな、旦那も喜んでたやろと言うと唇を近づけてきたので、又長いキスを交わした。

会いたい気持ちが抑えきれず、月に数回会うようになり、いつも時間をかけ愛し合い、お互いの愛を確めた。

今まで受け身だったが、段々男の力がみなぎってくる感じがして攻めることができるようになってきた。長いキスをしながら玲子を優しく愛撫し、目を見つめると激しい目で見つめ返し、唇を合わせてきた。玲子の身体の中に入れようとすると動いて私を受け入れてくれた。

果てた後知らずにしばらく寝てしまい目覚めると、私も寝てしまいましたと言って、冷えたタオルで身体をふいてくれた。

京都で会った時には、あまぎつねや九条ネギのうどん、蕎麦をよく食べにいった。料亭で和食をいただいたり、大阪までオーセンティックなイタリア料理を食べに行くこともあり、食後美術館や映画館に行ったり、カラオケに行ったり幸せな関係が1年以上続いた。

ある時あまり話しが弾まず、いつものようにキスをしようとすると、顔をそむけるようにして拒むような感じになった。何か違いを感じ、話しだけで別れた。最近玲子がいつになく幸せそうな仕草をするので、私といると幸せなんだと思っていたが、勘違いだったのかもしれない。

今までは子供とアニメをよく見に行くと言っていたが、最近はシリアスな映画をよく見るようになった。何かが変わったと感じた。

こんな年寄が玲子を縛ってはいけない、玲子には新しい生活がよいと思い、次に会った時、何かしたいことはあるのか聞くと、小さくてよいので喫茶店を持つのが夢ですと答えた。長年のお礼をしたいと思っていたので、のれん代、改装代を出してあげることにした。

私なりに喫茶店をまわって調べていたら、メイン道路から1本 中に入った、人通りは多いが静かな所にちょうどよい売りがあり、玲子のマンションからも近く玲子が気にいったのでそこに決めた。

_1020011reiko-23つの改装案のイラストを作成し見せると、玲子はクラシック調の案を選んだ。疲れた時休めるよう余裕ある長めのコの字型4人がけベンチシート1つと、カウンター席6席をゆったり配置し、家族だけでもやっていけるように、又時間帯により1人でもやっていける大きさににした。

日替わりランチは業務用通販でメイン料理を用意し、カレーライスも選べるようにして、サラダとジュースを加えるメニューを提案し、茜色で統一したメニューやチラシを作成した。

喫茶店が完成し玲子に引き渡した。
玲子の幸せを願い、二度と来ないでおこうと決意し、今までのお礼を言ったが、玲子は驚いた様子で、何を言えばよいか戸惑ったのか言葉に詰まってしまった。長居するとまずくなると思い、笑顔を無理に作って去った。

玲子から長い手紙が届いたが返事は出さなかった。時々店に顔を出してくださいと書かれていたが行くことはなかった。

又静かな田舎生活に戻り、時々オフィスに行ったり、ボランティア活動をしたりする以外は創作活動を行った。今まで撮りためた写真を整理し、fine art作品にしてプリントしたり、写真をもとに日本画制作に励んだ。

1年近くたった時、玲子からスマホに着信履歴があり、店に来てほしいとメッセージが入っていた。すぐ連絡を入れ店に向かった。閉店した後話しを聞くと、小さな問題で対応を教えた。

しかし本当の目的はそんなことでは無いと感じた。何かのストレスにより病が再発し、玲子の顔がむくんでいることが気になった。しばらく沈黙が続いた後、人とうまくいかなくなったと話しだした。

実存主義について話し、人は自由になったが、依然しがらみに縛られたり、社会や縁などにより自由にならないこともあり、他の人がいるから自由が制限される、しかしそれを受け入れ克服しなければ本当の自由は得られない、自分と他人との関係「他人の有り様は自分の有り様」、過去のこだわりを捨て新しい人生を築く大切さ、困難を克服し明るい未来を信じて進めば道が開けてくると諭した。長居せずそこそこに店を後にした。

それから1ヶ月ほどたった時玲子から電話があり、店に来てほしいとのことで、次の日閉店後に訪れた。玲子は明るい紬の和服を着て、金糸の帯を付けていた。調子良さそうで、笑顔で迎えてくれた。

経理や税務処理の仕方を教えた。遅くなったので玲子が軽い食事を出してくれ一緒に食べた。

話しが途絶えてしまい、気持ちが抑えきれず、肩を引き寄せると玲子の息遣いが聞こえてきた。玲子をソファに倒し抱きしめた。じっと顔を見ていると見つめ返した玲子の目が悲しそうで、思わず唇を重ねた。

 reiko-x唇が段々大きく開けられ、舌と舌の先がわずかに接する程度から、徐々に舌が優しくからみあい、玲子のかわいい小さな声が大きくなってきた。強く吸われ窒息死するかと思った。

一線を超えれば玲子の新しい幸せな生活が崩れると危惧したが、玲子の帯をほどくと、あっと小さな声を出した。

ゆっくり玲子の身体を愛撫し、今度は玲子が私を元気にしてくれ、攻撃的な自分が戻ってきた。

玲子を押し倒し、いつになく激しく攻めると、玲子の子宮が下りてきて私のものをくわえ離さなかった。小刻みな静かな振動が伝わってきて、今まで聞いたことがない玲子の低い声が聞こえ、私も果てた。
そのままの状態で半分眠った状態になり、時間が止まってしまった。

時々喫茶店を訪れるようになり、閉店後軽い食事をして話しをするようになった。

玲子からメッセージが入り、閉店間際に喫茶店を訪れると玲子の子供 愛美がいて、紹介してくれた。

車でマンションまで送っていくと、引き止められ部屋に入った。2LDKでシックな部屋で、玲子らしいと思った。

夕食を3人でいただき、愛美を寝かせて、よう寝たはるわと玲子が言うので、居間のソファで話しをしていると、母親が病気で亡くなった後、元気が無くなった父親も1年もたたず他界したと話してくれた。寂しそうな顔をするので抱きしめ、長い時間唇を合わせていた。いつしか寝てしまい、気がつくとブランケットがかけられていた。長居をわび夜中に別荘に帰った。

次に訪れた時、帰らんといてと引き留められ、ぶぶ漬けとちゃうやろなと言うとアホなこと言わんといてと言って手を握って離さなかった。

泊まることになり、愛美が寝てから、一緒にお風呂に入りますかというので、長いバスタブに玲子を後ろから抱いてつかった。玲子が身体を洗ってくれ、今度は玲子のたおやかな身体を泡に包みながら愛撫し洗った。玲子はスタイルが変わらへんなと言うと、恥しおすと言って笑いながら身体を手で隠した。

客間に行くと、あんたの部屋ですよというので見ると、私が使っているのと同じ藍の寝間着と着替えの下着が用意されていた。

前の旦那が好んだのか、ブランデーグラスにコニャックを入れてくれた。少し酔いながら、唇を合わせ、玲子を愛撫した。

もう年やなと言うと、あんたは若いでっせと言うので、何で若いとわかるねん、若いやつの方がええんかと言うと、そんなことおへんと言うので、ウソをつくなと攻めた。玲子が上に乗ってきて激しく腰を振った後私の上に倒れてきて唇を合わせてきた。玲子の身体を倒し見つめると薄くあいた目が何かを訴えているように見えた。

玲子のマンションを時々訪れるようになり、数日滞在することもあった。

時々愛美を連れ3人で、京都のお寺にお参りし、和食を_Z7A0076reiko食べたり、抹茶パフェを食べたり、お茶席に連れていったりした。帰りには抹茶スイーツを買って帰った。子供とはしゃぐ玲子を見ていると嬉しくなった。

愛美が私と手をつないでくれた時にはうれしくて涙が出そうになった。愛美が歩き疲れるとおんぶしてあげた。

七五三には二人に和服を着せ八坂神社にお参りした。愛美は玲子にママきれいと言うので、愛美もかわいくて着物が似合うねと言うと嬉しそうにしていた。二人の健康と愛美の成長をお祈りした。

玲子の承諾を得て、愛美の誕生日にサプライズでトイ・プードルを贈ったら泣いて喜んでくれた。この犬はやんちゃで部屋中を走りまわり、
愛美にじゃれて顔をペロペロなめ、愛美が抱いてお腹をさすっていると一緒に寝てしまった。 

クリスマスにはアメリカで購入した折り畳み式クリスマスツリーに電飾を付け部屋に飾った。谷川俊太郎の「もこ もこもこ」の大型本を贈り、読んであげると笑いこけていた。

愛美はお母さんが私にとられてしまうと思うのかダダをこねることもあったので、マンションに行くのを遠慮していた。

しばらく別荘にいる時、玲子からメッセージが入り、入院するという。至急病院に行くと、子宮筋腫で手術が必要とのことで、特別室に移した。

泊まりこんで見守っていると、夜中にベッドに来て欲しいと言われ、玲子の横に寝ると二度と離さないかのように抱きついてきた。顔を見ると涙にあふれた目で見つめてきた。笑顔で口づけし心配いらないと慰めた。手をゆるく握り早朝まで抱きしめていた。

子宮筋腫摘出手術がうまくいき、愛美と一緒に別荘に連れて帰った。

庭師に剪定してもらい広縁にたっぷり陽がさすようにし、広縁と雪見障子を通した柔らかい光が差し込む客間に玲子を寝かせ、横に愛美の小さな布団を並べた。本床の真ん中に般若心経と脇に2つの不動明王の掛け軸3本を掛け、枕元に、寄進している黄金不動明王のお守りと懐剣を置いた。伝来のものだが刀の部分は竹に取り替えてある。

玲子がずっと居てもよろしいですかと言うので、いつまででもええよと答えた。  いっこもええことあらへんかったけど Issy と会えてうれしおすと言ってくれた。

客間と居間は玲子と愛美に開放し、私は自分の部屋で過ごすことが多かったが、時々居間で一緒にテレビを見ることもあり、今まで見たことがないアニメやドラマ、歌番組を見て、新たな体験をした。

愛美が手伝ってくれ家庭菜園の野菜を収穫し、茹でたりサラダにして添え食事を作った。すぐに玲子も一緒に料理を作れるようになった。料理の仕方がわからずマゴマゴしていると、あんたはどんくさいなと言われた。玲子は料理がほんまにじょうずやなと言うと、あんたの料理は食べられへんことないわと言ってくれた。

お正月に料亭からおせち料理を仕出ししてもらったが、玲子も料理を作ってくれた。LINEにいっぱいお年賀が入ってるわと言うので、男からも来てるんかと聞くと、沢山の人から来てますよと言って見せてくれた。あんたには来てへんのと言うので、LINEをやってないのでメールが少し入っただけやと言うと、あんたの人生はさみしいなと笑われた。

 _D503599reiko玲子は情緒不安定な時もあったが、田舎生活をエンジョイして、花を植えたり、野菜を栽培して楽しむようになった。 庭師に頼んで花壇を作ってもらった。

愛美の誕生日には庭でハンバーグや大アサリ、野菜を焼いてバーベキューをした。犬も喜んで庭を走り回った。

玲子はペーパードライバーだったが、車を運転するようになり、私が運転してあげると言ってドライブすることもあった。玲子と愛美は車で買い物や遊びに行くようになった。 皆さん優しくていいですねと言うので、そうやろ、
田舎はほんまにええわ、離れられへんわと言うと納得していた。

愛美はおてんばで襖を破ってしまったことがあり、玲子が愛美をしかったが、襖は破れるものだからいいよ、又破るだろうからしばらくこのままでいいよと言うと、玲子が謝り当て紙を貼ってくれた。

愛美が寝てから居間で長い時間話しをすることも多かった。耳かきをしてあげると言われ膝に頭をのせてやってもらうとくすぐったかったが気持ちよかった。

595私の部屋でコニャックを入れてくれ一緒に飲み、最近玲子がきれいになってきておかしいなと言うと、かんにんどすえと言うので、何がどすえや、前の旦那にもどすえと言ってたんかと聞くと、そうどすえと答えた。

浮気したかどうかチェックせんとあかんなと言って、裸にして立たせた。玲子は手で上と下の秘部を隠した。触りながらこれは浮気をした身体やな、もう浮気せえへんかと聞くと、それはわかりまへん、若い人がええわと挑戦してくる。

玲子は俺の女やから浮気したら承知せんでと言うと、アホなこと言わんといてと言ってしがみついてきた。攻めるといけずと言う。あんたしかいませんよと言って上から下まで口で愛撫してくれた。ウトウトしながら朝まで玲子を抱いていた。

時々私の部屋に玲子を誘い一緒にコニャックを飲むようになった。今日はどこへ行ってきた、浮気しなかったかと言うと、八百屋の息子が笑顔で親切にしてくれはって、もうちょっとで浮気するところやったわと言うので、おしおきしないといかんなと言って攻めた。

もう身体がいうことをきかず男で無くなった気がして気落ちしてしまったが、セミダブルベッドに朝まで一緒に寝ていると喜びに満たされた。 ある時2人とも起きるのが遅くなり、愛美がノックしママと呼びかけ、びっくりして起きたこともあった。

玲子を愛することはどうしてこんなに悲しいのだろう。生の証を求めれば、死の影がつきまとう。もう私に残された時間は限られている。別れがこわい、いつまで玲子を愛することができるのだろうか。こんな私でいいんだろうか。

居間に置いてある電子ピアノを見て、玲子が使ってよろしおすかと聞くので、聞かせてとお願いした。

ツェルニーの練習曲エチュードを弾いて、あかんわ指が動けへんわと言った。

グランドピアノを買ってあげるわと言うと驚いて、グランドピアノは高いでっせと言うので、別荘の居間はピアノが置けるよう土台が作ってあると説明した。棟梁にお願いし、防音のため窓は二重ガラスにし、床に防音材をひいてもらうよう頼んであげるわと言うと、本当と嬉しそうにしていた。しかし、工事は間に合わなかった。

近くの遊園地に行き、3人で遊んでいると愛美は疲れたのかあくびをするので抱いて帰ると寝てしまった。

他の人から見ると、母子におじいさんがついてきたように見られるかもしれないが、こんな生活が長く続くことを祈った。

愛美に何か食べたいものがあるか聞くと、ハンバーグを食べたいと言うので、玲子がファミレスに食べに連れて行くとよくハンバーグを注文したと言うので、近くのファミレスに行った。ファミレスには行ったことが無く初めて入ったが、多くの家族連れが食事を楽しんでいた。愛美においしいか聞くと、うれしい顔をしておいしいと言ってくれた。デザートにアイスクリームをとってあげ楽しい時間を過ごせた。

ある日仕事に出かけようとすると、いかんといてと玲子が引き止めるので顔を見ると悲しそうな目をしていたので、しんどいんかと聞くとちょっとえらいねんと言うので、がんばりすぎとちゃうか、今日は一緒にいよかと言ってソファに寝かせ身体をさすってあげた。玲子とはご縁があったんやな、長い間おおきになと言ったが寝てしまっていた。

玲子が具合悪そうにしていていることがあり心配していたら、朝起きてこず寝床を見に行くと、身体が腫れ苦しそうにしていた。至急病院に連れて行くと癌が身体にまわっていて、手術も難しいとのことだった。

玲子の希望で別荘に連れて帰ってきた。

玲子は私のことを Issy と呼び捨てするようになった。「お茶」と命令したりして、玲子は我がまま放題になった。おいしいお茶もいれられへんの、アホとちゃうと言うので、ほんまにアホになったわ、玲子はかしこいなと笑った。 料理がうまく作れないと、ボケたんとちゃうかと言うので、ほんまにボケてしもたな、あかんなと笑って答えた。食パンのヘタは食べられないと残すので私が食べた。

冬の夜ハーゲンダッツのラムレーズンが食べたいと言ったり、抹茶アイスを食べたいと言う時もあり、店を回り買ってきたこともあった。レーズン等のフルーツチップを買ってきて、ラム酒やカルーア、ブランデーを入れてアイスクリームを作るようになり、おいしいわと言って食べてくれるようになった。

身体が動かないストレスや不安が少しでも緩和されればと我がままを受け入れた。

夜私の寝室にもぐりこんできて、文句を言うこともあった。うるさくて眠れないので静かにさせてきてと言うので、玲子が寝られるように虫が子守唄を唄ってんのやでというと私の胸をつねった。抱いていると、私の背中に爪をたてひっかいた。

玲子は神経質になり、戸を閉めたり廊下を歩くだけでうるさいと言ったりし、私のやることにやかましくてしょうがなくなったが、こちらまで神経質になるといけないので、怒った時にはなるべく明るく謝るようにした。怒って私をつねるので私の身体中に跡がついたが、玲子の苦しみが少しでも和らげばよい。玲子は甘えているんだなと思い、いつまで甘えさせられるのだろうと心の中は悲しくなった。

私が近くにいないと Issy と呼ぶ声がして、飛んでいくと何やってまんねん、ちゃんと近くにいてくれんとあかんやないかと言うので、いつもいるでと言って一緒にいた。ほな玲子のご飯を作ってくるでと言うと安心したような顔になった。

酒を飲ませると、おい Issy と呼んでくれ、私も一緒に酔ってしまった。玲子の顔を笑顔で見つめていると、何を笑ろてんねん、アホとちゃうかと怒るので、ほんまに漫才やなと思い、さらに笑いがこみ上げてきた。キスをしようとするとバカと言うが受けてくれた。

身体が動けへんわ、なんぎやな、何にもでけへんようになったわ、という独り言が聞こえ涙が込み上げた。 テレビを見ていると、何にも聞こえへんわと言うので音量を上げたが、音をかなり大きくしないと聞こえなくなったようで心配した。

時々痛みなのか、ストレスなのか苦しむことがあり、抱いてあげると首に手を回し爪でひっかかれた、それで苦しさが軽くなるんだったらよいとじっとしていた。

しばらくして車椅子が必要になり、客間に絨毯を引き詰めベッドを置き玲子の部屋にし、愛美も横で寝れるようにベッドを置いた。私も玲子を見守り居間のソファで寝ることもあった。夜中にトントンとベッドを叩く音がして行くと、何か飲むもんが欲しいと言うので柚茶を持っていくとおいしそうに飲んでくれた。

元々バリアフリーに設計してあり、客間、居間が引き戸でつながっており、ダイニング・キッチンにも行け、一括して冷暖房できる。居間からトイレには大きなボタンを押すと引き戸が開き行け、車椅子が入る。

広い広縁で日向ぼっこもした。居間に置いている北欧家具のリクライニングチェアで休ませることもあった。冬にはパナソニックのホットマットを椅子に置き、カシミヤのひざ掛けをかけた。夜寝られない時にはこのシートをフラットに倒して寝かせると自然に寝てくれた。

それでも、足が冷うて眠れへんわと言う時があり、甘酒に生姜を入れ熱くして飲ませた。温とうなってきたわと言うので、足をさすってあげ、ちょっといたずらすると、こそばいからやめてと言いながら寝てくれた。

毎朝卵にチーズや小エビを入れ朝食を作った。卵がふっくら柔らかい焼き加減になるよううるさかったが、それも言ってくれなくなった。

595余り食べないので、はれまのちりめん山椒や大安のべったら漬けや赤かぶらの漬け物を買ってきて、おかずと一緒に食べさせた。玲子はとりわけ鯛の刺身が好きで、食べさせようと、中央市場の近くの魚屋に朝早く行って鯛と中とろの柵を買ってきた。包丁の使い方が悪いから美味しくないわと言うので、有次の刺身包丁を買ってきた。

食べたいものは何でも食べさせようと、何か食べたいものがあるかと聞くと、春になったのでふきのとうやつくしが食べたいと言うので、錦市場で買ってきて天ぷらにした。この苦さが懐かしいわと喜んでいた。入山とうふ店でおいしいとうふも買ったきた。

料理がでけへんようになってすんまへんえと言うので、愛美が手伝ってくれるので助かるわ、愛美はええ子やなと言うと、愛美に母親らしいことができひんのが辛うおすと涙ぐんだ。

ショパンのノクターン No.20 を聞かせてと言うのでYouTube Musicでモバイルスピーカーに音を飛ばして聞かせた。ピアノ曲やけどええんかと聞くと、Issy が好きな曲でっしゃろ、もう一度ピアノを弾きたいと言うので、病気が治ったらピアノを買ってあげるでと言ってあげた。こんな曲も好きやでと言って「ノラ」をかけると「愛は一人芝居」なん、と涙ぐむので、ちゃうでと言って「さだめ」をかけるとますます泣いて私の身体をつねった。玲子と私は運命の結びつけやなと言って抱きしめた。

犬は玲子の病状を察してか車椅子の上に座ることが多くなった。それを見た愛美は、ママ抱っこしてと言って玲子に抱きついた。

車椅子に乗った姿を見られるのがいやなのか、外に出ようとしなかったが、車椅子が入るSUVを購入し、外に連れ出すようにした。車椅子から自動車に移すのにこんなに力がいるのかと驚いた。海を見に行きたいとか、山里に行きたいと催促するようになった。

誕生日に何か食べたいものがあるか聞いたところ、おいしい和食を食べたいというので、瓢亭にお願いし、別館に席を設けてもらい3人で食事をした。やっぱりおいしいわと言ってくれたが、半分ほどしか食べられなかたのが気になった。

桜の季節に又来ようと言ったが叶わなかった。もっと元気な内に楽しい思い出を沢山作ってあげられなかったことが悔やまれた。

ベッドに寝たきりになり、別荘地内にある医療機関に訪問看護を頼んだ。

あんたに苦労ばかりかけてかんにんえと言うので、何も謝ることはないよと言うと、食事だけやのうて愛美の分まで洗濯してもろうてすんまへんなと言うので、家政婦さんが来てくれてるし、そやけど2人の下着だけは私が洗ってるでと言うと、あんたに甘えてばかりで、貯金を使うておくれやすと言うが、大したことあれへんがな、玲子といられるだけでうれしいよと言いながら口づけした。玲子の汚物処理もするようになった。 

夜に泣いているので、寝られへんかと聞くと、横に来てというので、一緒に寝ると、誰かが迎えに来たと言うので、男かと聞くと、前の旦那とちゃうかなと言うので、ほんまにええ旦那やったな、玲子を心配して守ってくれてんねんで、そやけど迎えに来るんは早すぎるでと言い、一晩中抱いていた。

愛美が起きてきて何してんのと言うので、間に入りと言って一緒に寝かせた。この時間がずっと続けばいいのにと思ったが、病状は悪化してきた。

長い間ひたむきな愛をほんまにおおきに、あんたと会えてほんまに嬉しおすと言うので、ずっと愛してるでと言った。
愛美をよろしくお願いしますと言うので、愛美のことが一番心配なのだと思いよく話し合った上で、心配せんでええで、愛美を実の娘と思ってちゃんと育てるでと話し、養女にしてもよいか確認した。

愛美に父親ができて思い残すことはありまへん、これで安心して死ねますと言うので、何を言ってんのや、死んだらあかんでと言うと、私のことだけやのうて愛美のことまでえらい苦労をかけてしもうて、あの世に行ってもあんたへの恩は忘れまへん、永遠にあんたを愛していますと言って涙を流した。

玲子が愛美に、この人がパパになるのよと伝えても、幼い愛美には何のことかわからずキョトンとしていた。受け入れられないのかもしれない。

玲子が写真を撮って欲しいと言うので、ライティングをセットした。さすがモデルだけあってカメラを向けるとキリッとした顔になった。出来上がった写真を見せ、べっぴんさんやなと言うと遺影の写真にしてほしいと返事した。

プラチナの指輪を2つ買い、1つを玲子の左薬指に付け、玲子に会えて私の人生は幸せですと言うと玲子の目から一筋涙が流れた。一晩中手をとって横にいてあげた。

死ぬことは怖くあらへんけど Issy と別れることがおそろしおすと言うので、別れることなんかあれへんがな、いつも一緒やでと言うと安心した表情になった。自分の方が別れることが怖い、耐え難い悲しみに襲われる。

容態が悪くなり、別荘地内の病院の先生に相談し、ホスピス病棟に入院させた。愛美と交代で付き添った。 玲子の容態は最初悪くなる気配は無かったが、段々加速度的に悪くなってきた。

私が代わりになれれば命を捧げても構わないと思い、死んだらあかんでと念じてでいたが、とうとうその日が来てしまった。有難うと言うように唇が動いたので、長い間本当に有り難うと言うと、玲子がうなづいたような気がした。愛美と犬も立ち会ってくれ最後の瞬間を迎えた。

涙も流れず長時間遺体に寄り添っていた。玲子が顔を撫でてと言ったような気がして頬を撫でると、もう冷たくなっていた。

愛美は未だ死のことがわかっていないが、何か察しているようで、気を使って話しかけても硬い表情を変えなかった。

愛美の教育環境を考慮して京都市内のマンションに移った。

毎日愛美と一緒に玲子の遺影に手を合わせた。愛美のママは?という問いに答えることができなかった。愛美に寂しい思いをさせていることを玲子にわび、こんな私に愛美を育てる資格があるのか自分に問い、涙を押しころした。

愛美がママに会いたいというので、お墓に連れていった。ママはどこにいるのと聞くので、天国にいて、いつも愛美のことを見ていて守ってくれているよと答えた。昨日寝ている時にママが出てきたと言うので、いつも愛美のことを見ていてくれるからねと言うとママに会いたいと泣き出した。

夜寝ようとすると玲子のことを思い出しなかなか寝られなかった。うとうとしていると枕元に玲子が来てくれた。あんた何してはんねんと言うので目が覚めた。そうか、悲しんでばかりいても玲子は喜んでくれへん。しっかり生きることで玲子が喜んでくれるんやと思い、なにかふっとんだ気がした。

愛美は私のことをパパと言うようになった。おんぶと言ってくる時もあり、母親の役割を果たせないができる限りのことをした。

お風呂にどう入れてよいのかわからなかったが、お風呂に入ろかと言って、一緒に入った。湯船に一緒に入った後、泡ボディウオッシュで洗ってあげた。洗ってあげると言って私の背中を洗ってくれ、玲子のことを思い出した。一人で入れるようになるまで風呂に入れてあげた。

デパートに連れて行くと、はぐれるのが怖いのか手をぎゅっと握って離さなかった。レストランでお子様ランチを注文したが、食べたくないと言ってほとんど残してしまった。愛美の視線の先を見ると楽しそうに食事をしている両親と小さな子供がいて、愛美の気持ちを察した。食べれるだけ食べたら愛美が好きな抹茶スイーツを食べに行こかと明るく話した。

菊乃井さんの無碍山房にお邪魔した。いちごも食べたいし、抹茶のパフェも食べたいしと言うので、半分っこしよかと言うと、めっちゃおいしいとたくさん食べ、お腹がいっぱいで歩かれへんと言うのでおぶってあげるわと言ったが、わずか数ヶ月で結構重くなっていた。

家に帰ると沈んだ雰囲気の愛美を気遣ってか、犬が愛美をなめ、じゃれてくれた。

愛美を一人寝かそうとすると泣き出し、絵本を読んであげ愛美が寝つくまで手を握って寝かしつけ、朝までいてあげた。

愛美の部屋にいると、玲子がいたせいか、愛美の匂いなのか、玲子の匂いがかすかにして懐かしくなった。

育児は大変だと覚悟していたが、体力的にも、精神的にもこんなに大変だということを実感した。しかし、父親として愛美を愛することで、玲子を亡くした悲しみを助けられた。

愛美が寂しがらないよう、柴犬も購入した。人の気持をくみとり慰めてくれた。2匹はすぐに仲良しになったが、愛美が柴の子犬を抱いていると、もう一匹が間に入ってじゃまをするので、二匹を一緒に抱かないといけなくなった。二匹は愛美と一緒に寝てくれた。

玲子の友人のピアニストの所にピアノを習いに行かせ、ヤマハの電子ピアノを買ってあげた。愛美はピアノも上手やなと言って、練習曲に合わせ、低音部をアドリブで連弾した。

イギリス女性の家庭教師に毎週来てもらい、英語の絵本を読んでもらったり、英語の歌を一緒に歌って英語の基礎を教えてもらった。レッスン後夕飯を一緒に作り3人で食べるようにした。私が英語を話すので愛美が驚いていた。

_DSC0884reikoクリスマスには大阪のホテルに親戚の人たちを招きクリスマスパーティーをした。 スイートルームに親戚の子供2人も宿泊してくれ、夜遅くまでゲームをしていた。 毎年の恒例行事になった。

玲子がしていたようにしつけに気をつけ、食事前後には玲子の遺影に手を合わせ 「いただきます」「ごちそうさまでした」と言うようにした。

しかし時々我がままになり、スイーツを食べたいと言うので土曜日はスイーツ解禁日にして、抹茶パフェを食べに行ったり、わらび餅を買って帰った。玲子が好きだったわらび餅は遺影にお供えしてから食べた。

愛美がしんどいと言うので見てみると手足が冷えており寒気がしていて風邪をひいたようで、どうしてよいかわからず慌ててしまった。 手が冷とうなったらお母さんは何か作って飲ませてくれたと愛美が言うので、生姜湯にハチミツを混ぜてを飲ませ、暖かくして寝かせると、ぬくとうなってきたと言って寝てくれた。一晩中側にいて様子を見ていた。

朝食は温かいお粥を食べさせた。念の為に小児科に連れていくと、喉が腫れていて内服薬をもらい、黒糖飴をなめさせると治ってきたので安心した。

授業参観では愛美がハキハキ答えていたので安心した。何が好きですかと聞かれ、皆んなはハンバーグとかカレーライスと答えていたのに、納豆が好きですと答えたので笑ってしまった。

他のお母さんからおじいさんですかと尋ねられ父親ですと答えると皆さんがびっくりしていた。 

運動会にはお弁当を作って持っていった。リレー走で愛美が最後のランナーとして、3人を抜いてゴールした時には、写真を撮るのを忘れ夢中で応援していたら、なんで写真を撮ってくれへんかったんと怒られたので、目に焼き付いた姿を絵にして渡した。

_DSC3772もの愛美が部屋で大きな声で泣いているので見に行くと、弱っていたトイ・プードルが亡くなっていた。別荘に埋葬し小さな墓を立ててあげた。力なく立ちすくむ愛美を思わずハグした。 

春には玲子が好きだった蕗のとうやタラの芽の天ぷら、白和えを作ってくれた。玲子も一緒に食べられないのが残念だが、一緒にいるような気がして寂しく無かった。つくしをとりに近くの畦道や土手に行ったが、見つけらず錦で買ってきた。 

別荘の近くの農家にお願いし、タケノコ堀に出かけ、若い芽は刺身にして食べ、大きいものはぬかでアク抜きし、たけのこご飯にした。酢味噌和えとおすましも作って食べるとほんまにおいしく、何杯もおかわりしてお腹いっぱいになってしまった。 

棚田の田植え体験に連れていき、ドロドロになりながら田植えをする姿を撮影した。おきばりやったなと褒めた。_DSC3772もの

夏には浴衣を着せ、祇園祭の宵山に愛美と出かけたが、愛美が走り回るので迷子にならないよう必死でついていった。金魚すくいは愛美がじょうずで、私がポイをすぐ破るのを見てへたくそやなと笑われた。粽を買って帰り玄関に飾った。 

秋には長靴とトングを持って丹波に栗拾いに出かけ、大きな栗をとって、栗ご飯を作って食べるとおいしかった。愛美は栗きんとんを作ってくれた。愛美のおかげで忘れられない思い出がたくさんできた。 

今夜は何を食べたいと言うと、いつも年寄りの食べ物みたいやから、しゃぶしゃぶが食べたいと言うので、三田肉を買ってきて、三つ葉など野菜もいっしょに、ゴマだれとポン酢たれに付けて食べたら美味しかった。今度三田にステーキを食べに行こかと言うと喜び、Issy は何が好きなんと聞くので、そうやな、和食が好きやけど、海鮮料理も好きやな、三宮に伊勢海老の店ができたから行こかと言うと、伊勢海老は食べたことないから連れてってと言って喜んでいた。

愛美は大きくなったら何になりたいんと聞くと、看護婦さんになりたい、お母さんみたいな病気の人のために働きたいと言うので、看護婦さんはほんまにようやってくれたな、みんな優しい人ばっかりやったな、そやけど気持ちだけでは看護婦さんにはなられへんで、ようさん勉強しないと人を助けることはでけへんでと言うと、わかったと言ってくれた。 

喫茶店はしばらく休んでいたが再開し、私が世界各地で購入したジノリやレノックスなどの食器を飾り、お客様の希望によっては使ってもらえるようにした。

壁の一面を展示スペースにして私の写真や絵を飾っていたが、お客さんの希望で展示できるようにし、絵や写真、工芸品や民芸品、クラシックカメラやオールドレンズの展示会も開催され、私も出品した。お客さんが店に入りきらない程盛況になったので、改装し展示スペースを広げた。

愛美は高校生になり、活発な女の子でチアダンスクラブに入会し、友達も多く、学生生活を満喫しているようだった。

幼い頃は私のことをパパと呼んでくれたが、最近は玲子と同じように Issy と呼ぶようになった。しつけを厳しくすると反発するようになり、口答えが多いと思えば、無視されてしまうことも多くなった。

愛美を送っていく約束を忘れてしまい遅くなったら、何やってんねん、ボケ、病院へ行っといで、としかられた。

居間でテレビを見ていると、Issy は汚いから向こうへ行ってと言うので、自分の部屋に行ってくるわと言って去った。Issy が便所に行くと臭いから外でしてきてと言うこともあり、終わったら掃除するからなと言ってトイレに行くたび掃除した。

ある日愛美から「くそじじい。うるせえんだよ。早くくたばれ」というメッセージが入った。「愛美が一人前になるまでくたばれるか」と返事した。誰かから何か言われたのかと心配した。

愛美が帰宅し、何でお前に養ってもらわないといけないんだよというので、玲子が私に託した手紙を愛美に見せた。それを持って自分の部屋にこもってしまった。愛美の心の空白を埋めてあげられないことを思うと涙が止まらなかった。

翌日朝食を食べた後学校に行ったが、今まで行ってらっしゃいと言っても返事が無かったが、自分から行ってきますと言ってくれた。きのうはごめんなさいというメモがテーブルに置かれていた。

夕食後玲子との楽しい思い出話しを笑いながらした。私が撮影した玲子のポートフォリオ・ブックを見せるときれいと言って見ていた。

玲子は弱いところを愛美に見せたくなかったので、愛美が知らないことも話した。身体に残された玲子が付けた引っ掻き傷の痕や痣を見せると愛美はどうしたんと聞くので、玲子が私をたたいたりつねったりして痛みやストレスが軽くなるんだったらと思ってじっとしていたと話すと、そうなんや、よう我慢したんやなと慰めてくれた。

愛美は小さい時のことをよく覚えていないようなので、愛美が生まれてからのことを話した。愛美が生まれたことをお父さんは喜んで可愛がっていたが、1年もたたずお父さんが亡くなり、玲子が一人で育てていたが、玲子は私に父親をつとめてほしいと期待したのかもしれない。

玲子の看病のため愛美の面倒をよく見れなかったことをわびたが、Issy はお母さんを愛してたんやね、お母さんを大切にしてもろぅておおきにと言ってくれた。

本当の父親になりきれていないことを愛美に詫びた。愛美は首を振って下を向き、お母さんが Issy にひどいことを言ってたことしか覚えてへんからそんな人なんやと思って、私も同じ態度をとってしおうたけど・・・ と言って泣いてしまい自分の部屋に行ってしまった。私の部屋に入ると涙が止まらなくなった。 

翌日朝食の後テーブルにメモが置かれていて、昨晩お母さんの手紙をもう一度見直し、献身的な愛がよくわかりました、ごめんなさいと書かれていた。

その翌朝、おはよと言って起きてきた。それまで私が毎日おはようと言っても返事は無かった。朝6時半に起きて作った弁当を渡すと、ありがとと言ってくれた。

夕食後、お母さんがいなくなって私は一人になったと思ってた、Issy がお父さんなのと聞いてきた。愛美のお父さんは私やでと力強く言った。これからも父親として愛美を守ってあげるんで、心配せんでええでと言うと、わかったと言ってくれた。私が料理を作っていると愛美が手伝うようになり、今日は私が作ってあげると言って料理を作ってくれる日もあった。玲子のように料理が上手だったので、日本料理を習わせた。

Issy はなんでヒゲをはやしてんのと聞くので、若い頃海外で仕事をしていると、若く見られていうことを聞いてもらえないことがあって、少し威厳をつけようと思ってヒゲを生やしたんやと言うと、薄くなってきてみっともないけど、ヒゲの無い Issy は違う人になってしまうからええかと言われた。

Issy はいつも何してんのと言うので、ちょっとは仕事をやってんねんでと言うと、もうかってんのと聞くので、もうけるのはへたやな、例えば100万円の仕事がきたら、120万円ほど使ってしまうねん、いつも赤字やけど、まあお客さんが喜んでくれはるんでええわと答えると、そんなんで暮らしていけんのと聞くので、関係している会社や興味のある会社に投資したり、ベンチャーを支援して、まあまあやっていけるなと言うと、ほな小遣いを上げて欲しいけどと言うので、ちょっとだけやったらええでと言うと喜んで、私が働くようになったら養ってあげるわと言ってくれた。

事務所に行ったり、ボランティア活動をしたり、ジムで運動したり、散歩の途中に喫茶店で休憩したりしてるけど、創作活動もやってるんでアトリエを見せてあげよかと言って次の日別荘に連れて行った。アトリエを初めて見た愛美は、へえ、こんなん知らなんだわ、えらいがんばってるやんと言って、興味を持ったようだ。

愛美は勝気やからな、少し肩の力を抜くと違う世界が見えてくるで、ちょっとアホなところがあってもええでと言うと、私は一人で生きてかなあかん、強くないとあかんと思ってたけど、Issy に色々な経験をさせてもろうて、色々な世界があり、色々な見方があるんやということが少しわかってきたわ言ってくれた。

愛美には私が付いてるから、ちょっとはんなりしてても大丈夫やで、それがゆとりになって人の厚みになるんやと言うと、なんか考えさせられるなと目を閉じた。
Issy は結婚してたん? お母さんと結婚したん? と聞かれ、若い頃結婚したことがあるんやけど、働きすぎて家に寝に帰るだけになってしもて、子供もでけへんかったんでうまくいかなくなって離婚したんや、玲子とは年が離れていて結婚するのに躊躇してしもたけど、 そんな形にとらわれず玲子とは一つになれたと思ってるし、玲子もそう考えてくれていたと思うわ、そやさかい、愛美は玲子と私の子やでと言うと、愛美は納得してくれた。
隣の寝室に飾っている玲子の肖像画を見せるときれいと言ってくれ、欲しいというのでマンションの愛美の部屋に飾ることにし、もう一つ制作することにした。

アトリエに飾ってある写真や日本画を見てこれ売れんのと聞くので、売れへんけど地元のの写真展に出したり、時々東京の展覧会に日本画を出展したりしているだけやけどなと言うと、私が稼げるようになったら展覧会を開いてあげるわ、その代わり売れたら半分はうちのもんやでと言った。

絵のモデルになってくれるかと聞くとモデル代は高いでと言うので、未だ駆け出しやから抹茶パフェでええやろと言ってモデルになってもらいクロッキーで下絵を描いた。愛美は玲子と一緒で美人やなと言うと、そんなこと言うても何にも出えへんでと言って笑った。完成した絵は、玲子の肖像画と一緒に愛美の部屋に飾った。

絵を描きたくなったらいつでもここを使ってかまえへんでと言って、時々連れて来て一緒にスケッチをした。

誕生日にサプライズでイチゴケーキを作ってくれ、一口食べるとうれしくて涙をこらえた。小さな革製ショルダーバッグをプレゼントしてくれ、イタリア製の高級品やないか、高かったやろ、小遣いを貯めて買ったんかいなと聞くと、そうやで、又貯めといてあげるさかい小遣いを上げてやと言うので少し上げてあげた。段々ボケてくるさかい、スマホや財布を落とさんよう、いつも入れときやと言われた。

愛美をボランティ活動に連れていき、小児病棟で子供の手を握らせると、なんて柔らかいんと思わず声を出した。
次に病院に行った時、前に会った幼児患者が亡くなったと聞かされ、自分が何もでなかったことを悔いていた。

愛美は医者になろうと決心し猛烈な勉強をしたせいか、京都の大学の医学部に入学できた。

成人式を迎えるので、西陣で振袖を借り記念写真を私が前撮りし、玲子の遺影の横に飾り報告した。 成人式には玲子の花押扇を持たせた。

表千家の茶道教室に_DSC3772もの習いに行かせた。又華道も習わせた。

別荘にお客様を招きし気楽な茶会を開くことにした。 京都市内から来ていただいた数寄屋造り大工の棟梁にお願いし、書院造の大間には炉が切ってあり天井から釜を吊るせるようにしてある。畳をはずし、天井から鎖で釜を吊り下げた。 玲子が盆点前でお薄を点ててくれた思い出の茶碗 瀬戸黒と黄瀬戸を出してきた。 床柱に丹波焼きの花瓶を掛け、ボケの 一輪挿しにした。 愛美には玲子の紬の着物を着せ玲子の花押扇を持たせた。私はほとんど着ていなかった大島紬を出してきた。いわばお披露目で愛美に亭主をつとめさせ、私は半東の役割をになった。 
客間と居間の間の両開き戸を開け、ダイニングキッチン、アトリエも開放し、居間でくつろいでいただいた後順番に客間にお招きし薄茶を楽しんでいただいた。

愛美はよう勉強してお点前ができるようになったな、長いことやってへんからもう忘れてしもたわ、ボケてきたなと言うと、未だボケてへんで、そやけどボケたら知らんで、面倒見いへんからなと言われた。

車を運転したいというので、運転免許を取らせた。車を貸してくれる?というので、擦るのはしょうがないけど、ひと擦り10万円やから弁償してや、それより事故を起こさんよう気をつけんとあかんでと言うと、気をつけて運転しますと言った。

_XE40330普段愛美が車を使うようになったが、ある日車が無くなったと言って駐車場から帰ってきた。一緒にマンションの駐車場に降りていくと赤のアルファ・ロメオが停まっていて、これ愛美への誕生日プレゼントやでと言うとびっくりして、ほんまに、ありがとと言って喜んでくれた。時間があると言うので近くを愛美に運転させると、なんか早いなと言うので、羊のようで狼に変身するから気をつけんとあかんよと言った。

次の休日お礼にドライブに連れていってあげると言うので伊吹山に行った。アルファ・ロメオを運転してみたかったので行きはハンドルを握らせてもらった。

山道ではクイックなハンドリング、アクセルとブレーキのフィーリングがスポーティーで、クアドリフォリオ(四つ葉のクローバー)のエンブレムが付いたこの車は運転が楽しい。マニュアルシフトに切り替え高回転を保つとイタリアンサウンドが奏でられ、アクセルを踏みすぎるとフェラーリが設計したエンジンが吠えて狼になる。

山頂まで歩き、愛美が作ってくれたお弁当を開けると、おにぎりの横に卵焼きと春菊のおひたしが入っていて、昔玲子と初めてドライブに行った時作ってくれたお弁当と同じだったのでびっくりし、春菊の味が思い出され、涙をそっとふいた。

帰りにたねやさんでお菓子を買い、愛美が運転して帰った。私の運転は静かやろ、Issy が運転すると音がうるさいわ、運転がへたくそやなと言われた。

この車が気に入ったから時々貸してやと愛美に頼んだら、経済観念がしっかりしていて、貸してあげるけどガソリン代は出してやと言うので、いつも満タンにしてあげるさかい貸してやと念をおした。

別荘近くで買い物やボタンティア活動に行くのに小さなBMW グラン クーペ Mスポーツを別荘に置いた。愛美が次に別荘に来た時、これかっこええやん、これに変えてもええと聞くので、どっちでも好きなんに乗ったらええでと言うと、こっちの方が静かやし燃費も良いからええわと言って乗って帰った。結局赤いアルファ・ロメオは私が乗ることになった。

海外留学したいというので、イギリスの友人に相談し、ロンドン郊外の大学の医学部に1年間留学させた。 

クリ_DSC3772ものスマス休暇にイギリスに行き、ロンドンのパブで、英国での学生生活について聞くと、楽しく過ごしているようで安心したが、学食がおいしくないと言うので、佃煮や漬物を持ってきたと言うと喜んでいた。

かって国賓級や王室関係のVIP接遇で知り合った私の友人が会員制クラブに招待してくれた。 昔は女性立ち入り禁止だったが、クラブには奥さんと娘もいて、My daughterと愛美を紹介した。

皆さん 綺麗なposh englishをしゃべるので、愛美がどうしようと言うので、自分の言葉で喋ればいい、わからない言葉は知ったかぶりせず、聞き直せばよいと教えた。

友人の娘アイリーンも医大に通っていて、話しがはずんで友達になったようだ。

クラブ内レストランのバーでしばらく立ち飲みし話しをした。私はシャンパンを注文した。友人は愛美にアイリッシュ・コーヒーを勧め、アイリッシュ・ウイスキーが入った強いカクテルとは知らずに愛美が飲んでびっくりしたのを見て皆んなで笑った。ダイニングルームに移りイタリア料理をいただき、愛美はデザートにイチゴにクリームをかけて食べ、すごくおいしいと言うと、友人はボウルいっぱいのイチゴを持ってこさせ、おなかいっぱいになってしまった。別室に移り食後酒のブランデーを飲んで2人とも酔ってしまった。

愛美は日本に興味があるアイリーンと話しがあい、家に招待され、後日1泊し、お城のような家だったようで知らない世界に触れることができたと喜んでいた。

友人にお礼のメールを送った所、素晴らしくきれいな英語で返信があり、愛美の感性の豊かさ、知性、知識の高さを褒めてくれた。娘が休みに日本に行きたいと言っていると書かれていたので、是非家族全員で日本に来てくださいと返事した。

海外旅行は初めての愛美を連れ、ユーロスターでパリに渡り、美術館を周り、カルチェラタンのカフェで休憩し、夜は生牡蠣、ムール貝とオマール海老のシーフードをお腹いっぱい食べた。玲子を連れてこれなかったのが残念だったが、小さな玲子の遺影をテーブルの上に置きシャンパンで乾杯した。

翌日愛美の好きなショコラトリーに入り、夕食はブイヨンでフランス料理を堪能した。挨拶程度だが私がフランス語をしゃべるので愛美が驚いていた。

オーストリアのウイーンではオペラ座で当日券を買いバレエの公演を見た。

_DSC3772ものチェコで私がよく通ったプラハ市民会館のカフェで親しいウエイトレスに愛美を紹介し、コーヒーを飲んだ後、美しいスメタナホールを案内した。私が東欧で仕事をしていた頃、マネジャーが6時間かけて車でウイーンまで送ってくれた時に悲惨な歴史を話してくれた、夜スメタナホールでグリークのピアノコンチェルトを聴いた時、今まで世界各地で聞いた歴史や体験した思いが一気に吹き出し、涙が止まらなくなったことを話した。愛美は、ええ話やね、世界には知らんことがいっぱいあるんやねと言って話しを聞いてくれた。 私はオランダから帰国した。

翌年には、私のイギリスの友人家族が来日し、ヴェルファイアのタクシーで関西空港までお迎えに行き、別荘にホームステイしていただいた。少し休憩していただいた後皆さんを散歩に誘った。犬を連れ一緒に近くの池の周りを一周したら最高のおもてなしと喜んでいただけた。

居間で休んでいただき、ロンドンの蚤の市で買った王室御用達のアンティーク ティーカップで紅茶を出すと、この器は細工が素晴らしく珍しくて良いものと鑑定していただいた。

家の中を案内すると、私のアトリエが和風に作られているのに感心された。雪見障子から柔らかい光が差しこみ、銅板葺の長い庇の下には石が引き詰められており、雨の時には雨水が石に落ちるようにして雨を楽しめるようにしてあり、こんなアトリエならクリエイティブなアイデアがわくと言ってもらえた。

京都市内からお弁当を届けていただき、ダイニングキッチンで皆さんといただいた。客間に移り、愛美が抹茶を点ててくれた。薄いピンク色と金色に浮かび上がる淡い桜の京焼抹茶茶碗を用意したら気にいってもらえ、贈呈した。

布団をひいて休まれる時、あえてアルミ製雨戸は閉めず、朝に障子を通して朝日が入るようにした。

客間の広縁の縁側には沓脱石が置かれたていて、草履で飛石を渡って庭に出れるようにしてあり、自然との一体感が日本文化の真髄と絶賛された。

翌日着物をレンタルして、お寺や博物館をご案内し、一緒に京都の街を楽しんだ。娘さんはこんなにおいしいものは初めて食べたと言って抹茶パフェを気に入ってくれた。

友人夫婦は3日滞在後帰国され、娘さんはマンションをベースに2週間日本各地を行ったり来たりして遊んで帰国した。帰られた後も愛美はメールでコンタクトしていたようだ。

かって一緒に仕事をしたことのあるベティーから連絡があり、ハワイのカウアイ島の別荘に招待され、愛美と一緒に訪問した。玲子の子供と愛美を紹介したら、玲子を知っているベティーが驚いていた。愛美は私と玲子の子供と思っているようだった。

ご主人がプライベートビーチや所有する山をバギーで案内し、その広さに愛美は驚いていた。海から別荘まで引かれたカナルに停めたクルーザーに乗り沖に出て錨を下ろしのんびり過ごした。スーパーに行き冷凍ハンバーグやエビを買ってきて、庭にかがり火をたいてもらいバーベキューを楽しんだ。

翌年には夫妻を別荘に招待し、和室に泊まるのが良い経験になったと言ってもらえた。京都は初めてで、観光や料亭の和食を喜んでもらえた。

この夫妻はカナダにも別荘を持っていて、セスナをチャーターして来てくださいと言われ、最初は冗談と思っていたが本当で、バンクーバーからセスナをチャーターして湖に着水して訪問した。いつセスナに迎えに来てもらうか伝えておかないと帰る手段は無い。

食べるものは自分で作るか狩猟、釣りをするしかないと言われ、一緒にヨットに乗り湖に出て釣りをしたが、ほとんど釣れなかった。今晩の夕食は無しと主人から言われ、がっくりしていると、主人が笑って仕留めたシカ肉や、セスナで運んだ冷凍食品を出してくれ、愛美が手伝い、薪に火をつけ料理した。

夜はランプしかなく、プロデューサーの主人は創造的なアイデアがわくと話してくれた。星空が美しく感動した。愛美がトイレはどこですかと聞くと、熊に気をつけて外でしてくださいと言われ、外に出ようとすると笑われ、室内のトイレを案内してもらえた。

L1000353次の年、世の中には色々な世界があることを知って欲しくて、ベトナムに連れて行った。ホーチミンで車と英語の通訳をチャーターして回った。喫茶店、と言っても道端に簾で作ったような粗末な小屋に2人を残し、愛美を連れて田んぼの中を歩いて行った。未だ小学生のような子供がハスの畑で働いているのを見て愛美はショックを受けたようだった。

お母さんとおぼしき人がハスの花を一輪切って持ってきて愛美に渡してくれた。愛美がどう言っていいのかわからないようなので、日本語で言えば心が通じると伝えると、有難うございますと言って手を合わせた。お母さんは粗末な小屋に入っていき、我々に家族を紹介するためかお婆さんと赤ちゃんを見せてくれ、愛美はおばあさんに頭を下げ、赤ちゃんが可愛いと言って笑顔を見せるとお母さんが喜んでいた。

 L1000353ハノイから車と英語の通訳をチャーターし、少数民族の村に一泊二日で行った。村に到着するとお母さんと赤ちゃんが出迎えてくれた。

少数民族の言葉は通訳にもわからないと言うので、何の為に通訳を雇ったんかわからへんなと愛美に伝えた。愛美は子供たちとすぐ親しくなり、石を並べたり蹴ったりして一緒に遊んでいた。私は網で作られたハンモックで休憩した。

和食のお弁当を用意してくれていたが、それらを皆さんに配り、10人ほどの大家族と一緒に夕食を食べた。スープは野菜を煮た薄味で、魚醤で味付けされていて素朴な味だが美味しかった。カマキリや、何かわからない虫とおぼしき炒め物は愛美も美味しいと言って、ご飯と一緒に食べた。メインは来客を歓迎する豚の丸焼きで、炭火の香りが油に染み込んでいて、本当に美味しかった。食後愛美が持ってきた日本のお菓子をみんなに分けたら喜んでもらえ、子供はチョコレートが好きなようだった。

高床式の床にゴザをひいて寝て、次の日段々畑の草刈りを手伝った後ハノイに帰った。

ハノイでは100年以上の歴史のある豪華なHotel Metropoleに宿泊した。旧市街の中心部にあり、部屋から下を見ると周りはオートバイと車と人でごった返していて対照的だった。どっちが幸せかわからへんなと愛美はつぶやいた。

 L1000353次の年にはネパールに連れて行き、カトマンズでは愛美より小さいな女の子が生き神様と崇められている様子に感動したが、愛美は複雑な感傷を抱いたようだ。

運転手と通訳を休憩させている間に、丸太と簾でできた粗末な家に近づくと、中から5人の子供が出てきて、愛美が持ってきた塗り絵と色鉛筆を渡すと、みんなでキャッキャと言って遊んでいた。夕日に染まるヒマラヤに感動して帰ってきたが、愛美はもう一度友人と一緒にネパールに来たいと言った。

色々な世界があって、色々な人が生きてるんやな、もっと他のところにも行ってみたいけど、もっと深く知りたい気もするなと言うので、色々な経験が人を作っていくんやで、勉強だけでは得られない力を与えてくれるなと返事した。

愛美は博士号をとり研究医の道を歩んでいた。

愛美は小さい頃パパと呼んでくれていたが、最近は私のことを玲子と同じく Issy と呼んでいた。ある日「お父さん」と、初めて「お父さん」と呼んでくれ、結婚したい人を紹介したいというので家に連れてきてもらった。

代々福井の医者の家に生まれた同級生で、好青年という印象で、居間の飾り棚に置かれた日本の陶磁器、能人形、小鼓、能管や能楽の謡本、引き出しに収められた掛け軸、巻物等に興味を示してくれ、日本文化への造詣に驚いた。愛美が日本文化に理解のある人を選んでくれたことに感謝した。 

二人が庭のベンチに座ってキスをしているのを見て、玲子のことを思い出し、なにかうれしくなった。二人が戻ってくると、この別荘は二人のものになるんやから大事にしてやと言うと、顔を見合わせうれしそうにしていた。   

愛美が選んだ人なら良い人のはずで、玲子の墓にお参りし結婚の許可をもらった。

愛美が大人になったことをほんまに実感してるで、顔だけでなく仕草も玲子に似てきて、すらっとした体型でハッとし、ほれぼれすることがあるんやと語りかけた。   

愛美に、渡したいものがあると言って貯金通帳を渡した。玲子が愛美の養育費に私に渡したもので、前の旦那が亡くなる前にもらった分もあり、一銭も使わず、毎月少しづつだが増やしてあげていた。愛美は自分の名前の通帳の額を見てびっくりし、有難うと言うので、玲子にお礼を言うように言って一緒に遺影に手をあわせた。 

福井から立派な結納品が届き、別荘の床の間に飾り、玲子に報告した。福井のお父さん、お母さんに、ふつつか者ですがよろしくお願いいたしますと電話をかけ、男手で育てたので至らないことがありますし、何も用意ができませんがと伝えると、何もいりませんよ、結婚していただけることがうれしいので身一つで来てくださいと伝えられた。

充分なことはできないが花嫁支度し、先祖伝来の揚羽蝶の家紋入り蒔絵螺鈿飾り箱と、黄瀬戸茶碗を加えた。結婚式の打ち掛けの帯にさす懐剣を渡した。  

京都市内にマンションを買ってもらい、伝来の茶碗や花器、世界各地のカップと台所用品などを持っていった。

_DSF3152reiko福井での結婚式には玲子の遺影を持って出席した。最後に愛美のビデオメッセージが会場に流れた。玲子との思い出を語り、玲子へのお礼の言葉の後 「お父さん お母さんが亡くなった後我がままな私を長年育てていただき有難うございました。私が結婚することになり、お父さんがどんなにお母さんを愛していたのかよくわかりました。」その後は涙で聞くことができなかった。花束贈呈で、愛美が手紙を渡してくれ、泣きながら遺影の玲子と私にハグしてくれた。

イギリス経由で愛美は友人に夫を紹介し、イタリアからスペインへハネムーンにでかけた。私のマイレージでビジネスにアップグレードしたが、2人はハネムーンと伝えておいたこともあり、さらにファーストクラスにアップグレードしてもらえ喜んでいた。

これでやっと父親の役割を果たせ、親子の関係が築けてきた喜びがあるが、愛美が離れていく寂しさに襲われた。

愛美は福井に行ってしまい、又一人の生活に戻った。

本宅は蔵とオフィスを残して貸地と駐車場にしていたが、蔵とオフィスを整理し取り壊し、伝来の物は別荘に倉庫を作って移動した。会社も清算することにした。

田舎の別荘で過すことが多くなり、ほとんどの時間自分の部屋で仕事か創作活動をして過ごした。もう会社も引退し1年に1回顔を出すだけになった。

書斎兼アトリエには、棟梁にお願いして作ってもらった木の机の上に、マッキントッシュとプリンター、防湿庫等写真機材を置き、その横に日本画制作用の傾斜できる机と引き出し式の絵具棚を置き、スケッチ用のイーゼルもある。もう一方の壁には書棚とキャビネットがあり、写真集や画集、プリントした写真等が納められており、その上には作品を飾っている。寝室とは壁で仕切られているがカーテン越しに繋がっており、車椅子が通れる幅になっている。寝たきりになった場合には書斎兼アトリエを取り壊し寝室を大きくすることもできる。介護車や救急車が裏門から部屋に横付けすることもできる。

愛美は木曜日に京都の大学で研究を続けているので、時々京都市内で会って食事を一緒にすることがある。

居間で玲子がよく座っていた北欧家具のリクライニングチェアに座って画集や写真集などを見ていると、玲子も同じようにしていたことを思い出し涙が出てきて、このまま逝ければ幸せと思う。今までの楽しいことが次から次と蘇ってきた。

夜中に玲子が布団の中に入ってくる夢を見ることもある。あんたどこへ行ってたんやと聞くと、いつも一緒にいてまんがなと応えてくれた。かってと変わらずゆっくり玲子を愛し、朝起きるとパンツが濡れているとともある。

静かに余生を送ろうと思っていたのに、玲子が最後の光を与えてくれた。つらい悲しみ、耐え難い苦しみがあったが、深く満たされた瞬間もあった。今は楽しい思い出しかない。玲子 沢山の思い出をありがとう。 生きることは難しいが、生きる喜びも経験した。それも終わろうとしている。 いつも玲子がそばにいてくれるような気がして寂しくはない。 死があるからこそ生があることが少しわかってきた。生力が無くなると死が近づく。 

間もなく愛美が身ごもっていることがわかり、孫の誕生を心待ちにしていた。

別荘地内の医療機関から自立支援を受け、自分でできることはなるべく自分でやるようにしていた。

体調が優れなかったので、別荘地の中にある病院で診てもらったところ、不整脈があり、心臓が弱ってきていることがわかり、孫の顔を見れるかどうか心配になった。

愛美に心配かけず、全て終わってから読んでもらえるよう、玲子への思いと、愛美に沢山の喜びをもらったお礼の手紙を書き、別荘の維持管理を依頼している棟梁や税理士などの連絡先と後処理の依頼をしたため、机の上に置いた。

ホスピスに入ることを決断し、不動明王のお守りを持って入院した。そのことを電話すると、バカ、なんで早よう連絡してけえへんの、すぐ行くと言ってもらえた。

玲子のそばに行けると覚悟を決め、その時がくれば受け入れ、玲子のことを思い出しながら逝くつもりだ。 愛美をちゃんと育てられたのだろうか、なんて言ってくれるんだろうか。